ユモレスク

2012-03-06 18:06:59

 出かける時間になったが、やすが来ない。離室(はなれ)になっている奥の居間へ行ってみると、竹の葉影のゆらぐ半月窓のそばに、二月堂(にがつどう)が出ているだけで、あるじはいなかった。
 壁際に坐って待っているうちに、六十一になるやすが、息子の伊作(いさく)に逢いに一人でトコトコ巴里までやってきた十年前のことを思い出した。
 滋子(しげこ)は夫の克彦(かつひこ)と白耳義(ベルギー)にいたが、十二月もおしつまった二十九日の朝、アスアサ一〇ジパリニツクというやすの電報を受取ってびっくりした。
 やすは滋子の母方の叔母で、伊作をうむと間もなく夫に死に別れ、傭人(やといにん)だけでも四十人という中洲亭の大屋台を、十八という若さで背負って立ち、土地(しま)では人の使いかたなら中洲亭のおやすさんに習えとまでいわれた。
 長唄は六三郎、踊は水木(みずき)。しみったれたことや薄手(うすで)なことはなによりきらい、好物はかん茂(も)のスジと初茸(はつだけ)のつけ焼。白魚なら生きたままを生海苔で食べるという三代前からの生粋の深川ッ子で、その年まで旅といえば東は塩原、西は小田原の道了さまより遠くへ行ったことがなく、深川を離れたら一日も暮せないやすが、どんな思いをしながらマルセーユまでたどりついたろう、巴里までの一人旅はさぞ心細く情けなかったろうと、考えただけでも胸がつまるようだった。
 夏はドオヴィル、冬はニースと一年中めまぐるしく遊びまわっているふうだから、ひょっとしたらいま巴里にいないのかもしれず、いるにしてもあのなまけものがいそいそと出迎えなどしそうもない。駅の停車場の出口あたりで、途方にくれておろおろしているやすのようすが見えるようで、とても放っておけなくなった。
 克彦も心配して、行ってみるほうがいいというので、ブリュクセルまで自動車を飛ばして、午後の急行をつかまえ、夜遅く巴里へ着くと、案のじょう伊作はどこかで遊び呆けているのだとみえ、やすの電報は再配達の青鉛筆のマークをいくつもつけて手紙受(カーズ)の硝子箱の中におさまっていた。
 ホームの目につくところに立って待っていると、やすはうねのある鼠紺(ねずこん)のお召にぽってりとした青砥(あおと)色の子持(こもち)の羽織、玉木屋の桐の駒下駄をはいて籠信玄(かごしんげん)をさげ、筑波山へ躑躅(つつじ)でも見に行くような格好でコンパルチマンから降りてきて、
「おや滋さん、これはどうもわざわざ。若旦那は」
「伊作はよんどころない用事があって、それであたしがご名代よ」
「それはそれはどうも」
 駅の玄関を出ようとするとやすは急に渋って、
「こんなところで降されてしまったけど、ここが巴里なの」
 と、けげんな顔でたずねた。
「そうよ、ここが巴里よ」
 滋子がうなずいてみせると、やすは、
「へえ、これが巴里」
 あきれたような顔で煤ぼけた駅前の広場を見まわしていると、襤褸買い(シフォニェ)がオ・タビ・ラ・シフォニと触れながら横通りから出てきた。やすは、
「うむ、巴里もいいところがあるね。宝船を売りにきた。そら、おたから、おたからといっている」
「冗談じゃないわ。巴里で「なみのりふね」なんか売りにくるもんですか。あれは古服や襤褸のお払いといっているの。さあ、このタクシーよ」
 タクシーが走るにつれて、やすはだんだん機嫌が悪くなって、
「巴里ってずいぶんしみったれたところなんだねえ。若旦那、なにがよくて七年も八年もこんなところでまごまごしているんだろう。子供のとき世界一周唱歌で、花のパリス来てみれば月影うつすセイン河ってうたったもんだけど、まるっきり絵そらごとだったよ。呆れたねえ」
 と、こきおろしはじめた。滋子はつくづくとやすの顔を見て、
「呆れるのはこっちのことだわ。こんなところまで一人でトコトコやってくるなんて、いったいどうしたというわけなの」
 やすは案外な落着きかたで、
「こんど延(のぶ)が店をやってくれることになって、身体があいたからちょっと遊びにきたのさ」
「なんだか知らないけど、出すひとも出すひとだわ。たいへんだったでしょう。マルセーユではどうだったの」
「べつになんでもなかった」
「なんでもないことはなかったでしょう。でもよく気がついてあたしのところへまで電報をうったわね」
 やすはへんな顔をして、
「なんの電報」
「あなたがマルセーユから電報をくだすったから、白耳義(ベルギー)からこうしてお出迎いに罷りでたんじゃないの」
「それはあたしじゃない。滋さんの所書き日本へ忘れてきたから、うとうにもうちようがないじゃないの」
「でも、あなたのほかに誰が電報をうつというの」
 やすもへんだと思ったか、解けきらない顔で、
「マルセーユじゃ、ちっとも心細い思いなんかしなかったのよ。税関がすんだので、なんとかいう旅行社のひとに駅まで送ってもらうつもりにしていると、どこかの奥さまがそばへ寄っていらして、お一人で日本から。よくまあねえ。さぞたいへんでしたでしょう。駅でしたらあたくしがお送りいたしましょう。ちょうど友達の車を持っておりますからっておっしゃるの」
「いい都合だったのね」
「三十七、八の、すっきりした、なんともいえない容子のいい方なのよ。まだ時間があるからとおっしゃって、あそこはなんという通(とおり)なの、明石町(あかしちょう)船澗(ふなま)のあたりにそっくりな河岸のレストラントで、見事な海老や生海丹なんかご馳走してくだすって、それから」
「じゃ電報もその方がうってくだすったのね」
「そうなのよ。でもおかしなことだったの。あわてていたもんだから、電報の文句だけいって、若旦那の所いうのを忘れちゃったんだからなにもなりはしない。汽車が出てから気がついて、困ったことをしたと思って、巴里へ着くまで心配のしどおしだったけど、あなたが出ていてくれたのでほっとしたわ」
 伊作のほうはともかく、ブリュクセルまで電報をくれたそのひとというのは誰だったのだろうと思って、
「あなたその方のお名前、伺って」
「それがつい気がつかずだったの。でもあの方ならどこでだってわかるわ。汽車が出るまでホームで見送ってくだすったけど、あんな愁いのきいた、眼に沁みるような美しい顔、見たことがない。いまでもありありと眼の底に残っているよ」
 そういうと思いついたように籠信玄から塩せんべいをだして、
「滋さん、あなた好きだったわね。銀座の田丸(たまる)屋よ。荷物が着くとどっさり入っているわ」
 じぶんも食べながら移りかわる河岸の景色をながめていたが、薄靄の中にぼんやり聳えているエッフェル塔を見つけるとうれしそうに手を拍(う)って、
「ちょいと、あれエッフェル塔でしょう……明治四十年の巴里の万国博覧会といって、よくあの写真を見せられたもんだった。おやおや懐しいこと」
 他国で旧知にでも逢ったようにニコニコしていたが、パッシイの橋がすむと、
「ねえ、滋さん、あの上へのぼれるのかしら。エッフェル塔のてっぺんで初日の出を拝んだといったら話の種になるわね」
「ええ、のぼれるのよ。でもあそこが開くのは十時ですから、お日の出というわけにはいかないわ」
「ええ、ええ、それで結構よ」
 やすが小走りに部屋へ入ってきて、滋子が坐っているのを見ると、
「なんだい滋さん、こんなところにいたの。もう時間よ、さあ出かけよう」
 とせきたてた。
【引用元】 URL...


ああ華族様だよ と私は嘘を吐くのであった

2012-03-06 18:05:06

 その晩、私は隣室のアレキサンダー君に案内されて、始めて横浜へ遊びに出かけた。
 アレキサンダー君は、そんな遊び場所に就いてなら、日本人の私なんぞよりも、遙かに詳かに心得ていた。
 アレキサンダー君は、その自ら名告るところに依れば、旧露国帝室付舞踏師で、革命後上海から日本へ渡って来たのだが、踊を以て生業とすることが出来なくなって、今では銀座裏の、西洋料理店某でセロを弾いていると云う、つまり街頭で、よく見かける羅紗売りより僅かばかり上等な類のコーカサス人である。
 それでも、遉にコーカサス生れの故か、髪も眼も真黒で却々眉目秀麗(ハンサム)な男だったので、貧乏なのにも拘らず、居留地女の間では、格別可愛がられているらしい。
 ――アレキサンダー君は、露西亜語の他に、拙い日本語と、同じ位拙い英語とを喋ることが出来る。
 桜木町の駅に降りたのが、かれこれ九時時分だったので、私達は、先ず暗い波止場の方を廻って、山下町の支那街へ行った。
 そして、誰でも知っているインタアナショナル酒場(バア)でビールを飲んだ。ここの家はどう云う理由か、エビス・ビールを看板にしているが、私はずっと前に、矢張りその界隈にあるハムブルグ酒場で、大変美味しいピルゼンのビールを飲んだことがあった。
 独逸へ行こうと思っていた頃で、そこの酒場に居合せた軍艦エムデン号の乗組員だったと称する変な独逸人に、ハイデルベルヒの大学へ入る第一の資格は、ビールを四打飲めることだと唆かされて、私はピルズナア・ビールを二打飲んだのであった。
『そのエムデンは店の人です、つまりサクラですね。――』
 と、アレキサンダー君はハムブルクを斥けた。
『それに、あすこには、こんな別嬪さん一人もいませんです。つまらないですね。』
 アレキサンダー君は、さう云いながら、私達の卓子(テーブル)を囲んで集まった、各自国籍の異るらしい四五人の女給の中で、一番器量良しの細い眼をした、金髪の少女の頤を指でつついたものだ。
『マルウシャ! 日本人の小説を書く人に惚れています。――マルウシャ、云いなさい!』
 その少女の噂は、私も既に聞いていた。彼女は私に、××氏から貰ったのだと云う手巾(ハンカチ)を見せたりした。
 それから彼女は、アレキサンダー君と組んで踊った。ストーヴの傍にいた家族の者らしい老夫婦が、ヴァイオリンと竪琴(ハープ)とで[#「竪琴とで」は底本では「堅琴とで」]それに和した。私はエビス・ビールが我慢出来なかったので、酒台のところに立って火酒(ウォトカ)を飲んだ。
 若い時分には、可なりの美人だったらしい面影を留めている女主人が、酒をつぎ乍ら私の話相手になってくれた。

【引用元】 URL...


駈込み訴え(太宰治)

2012-03-06 18:02:10

 申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
 はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇(かたき)です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所(いどころ)を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月(ふたつき)おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄(まで)あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄(ちょうろう)されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇(かば)ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑(けいべつ)するのだ。あの人は傲慢(ごうまん)だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜(くや)しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚(うぬぼ)れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目(ひけめ)ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死(じに)していたに違いない。「狐には穴あり、鳥には塒(ねぐら)、されども人の子には枕するところ無し」それ、それ、それだ。ちゃんと白状していやがるのだ。ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭(さいせん)を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢(ぜいたく)を言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。謂(い)わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。私はこう見えても、決して吝嗇(りんしょく)の男じゃ無い。それどころか私は、よっぽど高い趣味家なのです。私はあの人を、美しい人だと思っている。

【引用元】 太宰治 駈込み訴え


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